震災の教訓と今後の街づくり

 2011年3月11日午後、福島市で、地域生協(コープふくしま)の理事会に参加していた時、大きな揺れに襲われ、全ての人が会議場から飛び出した。店舗の隣の会議室なので、多くの買い物客も飛び出した。足がすくんで立ち上がれない買い物客(高齢女性)に、レジの女性従業員が覆いかぶさり、商品棚からの落下による怪我から守った。最近になってまでも、従業員に対する感謝の言葉が寄せられる。

 店舗の前には、店舗から逃げ出した多くの買い物客・職員が集まって、揺れの収まるのを待った。建物は揺れるし、高い電柱は大きく揺れ、電線が撓んだ。停車しているワゴン車が、地面の動きで、誰かが意識的に倒そうとしているのではないかと思うほど左右に揺れた。地面に立って居れず、しゃがんでいる。

 自分の安全とともに、家族の安全をまず考えた。90代の義母と我々夫婦が、福島市には住んでいる。丁度、妻が所用で不在。義母が一人、心配になり、急いで車で帰宅。揺れは収まらず、停電のためか信号機は全く消えている。空いている高架橋を急いで渡り(高架橋の落下等、阪神大震災の経験等、後で考えるとゾッとする)、辿り着いた。玄関を開けるまで、最悪のことばかり考えたが、元気な義母を観て、安心。我が家の前の電柱も、なお、左右に揺れている。会議から帰宅した妻と合流し、会議場に置いた荷物を取りに、雪降る渋滞の道を、走り続ける。

 宮城・塩竃の長女は、3番目の孫の臨月で、マンションにまで津波が到来、2歳児を引き連れて何とか逃げ、高台の義父母宅に避難、出産は、その2週間後。自宅に戻れぬまま病院へ。地震の強くない弘前の次女は、その日は八戸での勤務。八戸駅にも大きな被害が出たようだが、八戸から弘前までタクシーで帰る。結果的にホッとした。

 連絡が取れないのが、私の郷里・宮城県女川町。親戚の殆どが女川在住である。携帯の基地局はすべて倒壊し連絡が取れない。住家の8割が津波で流され、固定電話は、ほぼ全滅。テレビの朝のNHKニュースで、女川の避難所の様子。たくさんの避難者の中に姪の姿。これで姪の生存を確認。その後、別の姪が、石巻に出たときに連絡をくれ、大体が判明。身内で行方が知れないのは、5人である。結局、2人の遺体が発見されたが、残る3人(実姉・姪・義姉)は、未だに行方不明のままである。ガソリンが手に入らず、約150キロ離れた現地にすぐに行くことは出来ず、最後の頼みで、インターネットのパーソンファインダーで、住所と名前を書いて、情報提供をお願いしたが、難しかった。却って、貴方が探している身内の方と近所に住んでいたが、どうなっているかと、アメリカ、ドイツ等からの問い合わせにびっくりした。各避難所の避難者名(避難者の名前が書かれた掲示の写真)に目を凝らして探した。絶望。

 朝日新聞の全面に女川の惨状の写真。隣のNHKの基地がある南三陸町の惨状報道は詳しいが、女川からは皆無。被災した現場では、役場の職員でさえ、連絡することが不可能である。災害の現場では、連絡すること自体が困難。連絡が来ない地域ほど、被害が深刻であることを想像すべきと思われる。それは一つの町の中でも、大変な災害を被っている集落ほど救援要請の連絡さえができないのである。想像力をもって、可能な部署が、可能な限り、基礎自治体の報告を待たず、把握することが必要である。

 女川町は、石巻市からは国道398号線一つで繋がっている。398号線は唯一の道路、避難道でもある。女川の復興計画策定委員会に参加させてもらったが、住民向けの復興計画の説明会に参加してみて、福島原発の事故の教訓から、新たな避難道の確保が必要であるとの意見が強かった。女川にも東北電力原発があり、震災来停止しているが、再稼働の是非については意見が分かれる。復興計画自体は、原発の問題は、ここでは論じないということを前提に急いで策定を進めた。

 国道が一本だけというのは、津波から避難した住民の食料の確保を困難とした。この道路は、膨大な津波が残した瓦礫で、全く封鎖の状態。自衛隊などの作業による開通までには、時間を要した。道路が閉鎖されて車が使えず、町長らは、瓦礫の山を徒歩でわたり、隣町へ。避難している者の食糧確保である。一般家庭の食料備蓄も8割の家屋の流失では、それにも期待できない。いくつかの農協に立ち寄り、米の提供を依頼したが、備蓄は他の自治体等への提供を約束済み。苦慮しながらの確保である。

 全壊・流失した家屋が8割という過酷さは、町の復興計画推進のスピードを速め、トップランナーともいわれている。しかし、震災前1万人の住民は、約千名が犠牲になり、復興を待てない人口流失で、現在は6300名ほどに激減した。私が住んでいた頃の3分の1になった。女川原発の再稼働問題で揺れているが、震災を教訓に、どのような街づくりをするか、住民に課せられている。