松川事件無罪確定60周年記念全国集会<主催者挨拶>

      松川事件無罪確定60周年記念全国集会<主催者挨拶>  2023.9.30

 

 本集会の実行委員長を務めている今野です。皆さんにおかれましては、大変ご多忙な中、全国から、松川事件無罪確定60周年記念全国集会のために、遠く福島までお出でいただき、ありがとうございます。心から感謝申し上げます。

 戦後最大の謀略事件、最大の冤罪事件と言われた、松川事件では、全くの証拠もなく、20名の労働者が突然、犯人に仕立てられ、その家族も含めて、大変に過酷な生活を強いられました。

第一審福島地裁の判決では、死刑5人を含む20人全員を有罪とし、第2審仙台高裁でも、死刑4人を含む17人を有罪としました。しかしながら、拡充された弁護団の力、さらに全国津々浦々に組織された「松川守る会」の運動、広津和郎氏をはじめとした広範な文化人の運動、国内外の公正裁判を求める大衆的な運動の力で、1963年9月12日に、最高裁は被告全員を無罪とする判決を確定しました。この時まで、無実の罪で逮捕されてから14年が経過していました。この無罪確定判決から、今年は、60周年を迎えました。

しかし、冤罪防止を訴え、語り部活動に積極的に取り組んできた20人の元被告のなかでただ一人ご健在だった阿部市次さんも、残念ながら昨年10月に99歳でご逝去されました。長い間のご苦労・ご活動に、心から尊敬と感謝を申しあげるとともに。希望に満ちた青春を一方的に奪った国家権力に対する憎しみを禁じえません。

こうした松川事件裁判の運動は、冤罪事件等で闘っている方々に大きな励ましを与えました。私自身は、大学に入学した1963年に、最高裁判決があり、輝かしい歴史を受け継いだ者ですが、宮城県には、松川事件ではなく、松山事件がありました。一家4人の殺人、放火事件です。それは1960年11月1日の最高裁判決で死刑判決が確定していました。しかし、家族などを中心に、無実を訴え、1961年3月に仙台地裁古川支部に再審請求をしていますが、1964年4月に棄却され、1969年5月に最高裁でも特別抗告を棄却しました。さらに第二次再審請求を行ったが仙台地裁で、棄却されましたが、仙台高裁は、弁護側が提出した新証拠の評価に踏み込まないことが刑事訴訟規則に違反するとして、審理を仙台地裁に差し戻す決定をしています。自白調書では、犯行後帰宅し、返り血を浴びたまま寝た。布団の襟元についている血痕を証拠にしていますが、そもそも、その布団は、事件逮捕から暫く経って、自宅から押収された物であり、法廷に出されたものは、押収された布団とは異なる別の襟当だった可能性があった。結果的に再審無罪を勝ち取ったが、1984年7月11日の判決であり、28年7か月の獄中生活を送ることとなった。

いまだに、仙台での学生時代に、一番町・青葉通りで、お母さんが息子の無実を訴えていたことを記憶しています。松川事件の被告が、宮城刑務所内で斎藤幸夫さんに会う機会があり、国民救援会などに相談するよう勧めたと聞いています。松川の被告は、獄中で、冤罪事件の救援のためにも闘っていたと思います。私は、偶然、宮城の松対協の小田島さんに連れられて、松山事件の現地調査に参加でき、自白通りの経路を歩き、無実の確信を強めたものです。

再審が開始した事件も、無罪の結論得るまでには、大変な苦労が必要だったのですが、松川事件の無罪確定への経験が、大きな役割を果たしているといえます。

松川事件無罪確定60周年を記念する本日の集会では。いまなお絶えることのない冤罪事件の再審救援運動に生かし、時代遅れの再審法を改正していく契機になればと期待しています。また、福島大学の松川資料室を、国家権力によって虐げられている世界の市民の「砦」になるよう、ユネスコ「世界の記憶」遺産に登録される運動が強化されることを期待しています。

本集会において、改めて松川裁判の教訓を引き継ぐとともに、人権と民主主義を発展させていく決意を固める集会になることを期待して、主催者としての、開会と歓迎の挨拶に代えさせていただきたいと思います。ありがとうございました。