弔辞(故砂山克彦さん)

     弔  辞

 半世紀に及ぶ親友、砂山克彦さんの葬儀に当たり、一言、哀悼の言葉を述べさせていただきます。
 一昨日、仙台の伊藤先生から緊急の電話をいただき、あなたの訃報を知りました。大きな病と闘いながらも、粘り強く治療をしている姿を見ていたので、突然の訃報に接して、全く信じがたく、ただ茫然としてしまいました。今の今も信じることができません。

 1963年、昭和38年4月、砂山君と同じく、私も東北大学の法学部に入学しました。それ以来、まさに50年間、半世紀にわたって親友として、同じ道を歩みながら、助け合い、親交を深めさせていただきました。
 学部学生時代、砂山君は学友の信望が厚く、学生自治会の代表として、難しい時期でしたが多様な意見をまとめ、学生の勉学と生活を守る先頭に立ってきました。

 私にとっては、学部のゼミで、外尾先生の労働法ゼミでともに勉強し、また大学院修士課程・博士課程でも、就職してからも、同じように共同の研究を継続してきました。
厳しいが優しい先生の下で、特に、単に机上の議論ではなく、実態に根付く労働法理論の構築に向けて、共同の調査・研究を進めてきました。
 出稼ぎ労働の問題、誘致企業の問題、さらに福祉労働問題などなど、先輩弟子である宮教大の伊藤先生、山形大学の高木先生、盛岡短大の大山先生等とともに、共同研究の苦しみと楽しみを経験できました。小規模の実態調査であったかもしれませんが、官庁統計からの分析のみに限定されないで、自らの足を使って労働現場を直視しようとしてきたと思います。

 研究の面だけでなく、私生活でも大変、お世話になりました。大学院の一時期、仙台の向山の6畳一間のアパートで、寝起きをともにしました。私は、生活が不規則ですが、砂山君は判で押したように、研究室に通っていました。
その後、お互い結婚の時期を経て、子どもが生まれたと喜びあいました。外尾先生はじめ、弟子たちの子どもは、不思議ですが、みな娘さんだけ。子どもへの心配、そして孫たちの自慢。何か、人生の大切な時期の全てを、共にしてきたと思っています。

 新潟県出身と関係あるかどうかわかりませんが、本当にストレートしか投げないピッチャーのように、いつも正攻法の生き方から、学ばせられました。

 昨日、偶然、1枚の写真が出てきました。3年前、2010年8月25日の写真ですが、外尾先生を囲んで6人、仙台の小料理店で昼食会をした時の写真です。先生が帰られてから、砂山君から貧血で医者にかかったら大変な病気が分かったとの、話を淡々と話されて、事の重大さを初めて知りました。大変な治療が必要だということでした。元気な砂山君を見ていて、何か信じがたく、言葉を失いました。仙台駅まで共に歩きながら、神に祈るような気持ちで、励ますしかありませんでした。

 退職後、激職を終えて、奥さんと九州旅行に行った話、楽しかった、奥さんは毎年行きたいと言っていると、彼は照れていましたが、もっともっと続けて欲しかったと残念に思っています。温かい家庭を築いてきただけに、彼の残念さを、痛感しています。

 いつも言っていました。もっと研究しなければと、お互い、共通の思いでした。砂山君も定年退職の時まで学部長を行い、私も同様でしたが、特に国立大学の法人化によって、研究者が研究に専念することが難しい状況になってきました。そうしたことから逃げることもあるかもしれませんが、大学の自治や学問の自由を守るためには必要で、砂山君は誠実に立ち向かってきたと思います。

 労働法の環境も随分変わりました。研究の途上で、派遣労働制度が導入され、過労死を生むような働き過ぎが指摘されながら、他方で正規の職にありつけない非正規職員が増大しています。砂山君は、労働法研究者として、こうした状況に対する危機感を持ち続けてきたと感じます。病を治癒して、使命感をもって、さらに研究を進展させることを可能とする時間を与えて欲しかったと、今は思っています。

 語れば尽きません。思いが溢れて、止め処がありません。
 これからも、あなたが身を持って教えてくれたことを、反芻しながら、進みたいと思います。後に続くものに温かい眼差しを送ってください。そして、楽しい時も、病める時も、あなたと共に温かい家庭をつくってきた、お家族、奥様、娘さんたち、お孫さんたちを温かく見守って下さい。

 砂山君、本当にありがとう。
 安らかにお眠りください。
     2013年9月7日
                                     今野順夫