畑井喜司雄君への弔辞

 


 畑井喜司雄君のご訃報を、仙台の高校の同期会の連絡で、初めて知ることになり、びっくりしています。

 昨年10月から体調を崩し入退院を繰り返していたようですが、コロナ禍でご家族のお見舞いも困難で、6月初めから自宅で、手厚い看病を受けられていたと知りました。お話ができるうちに、お話ができなかったことが残念です。

 畑井君との交流は、仙台の東華中学校の3年8組のクラスメートとして、短いが充実した1年でした。私自身は、宮城県の女川という漁村から、3年次に東華中学校に転校し、慣れない学校生活の不安はありましたが、畑井君をはじめ級友が温かく受け入れてくれて、楽しい生活を送りました。特に、畑井君からは、慣れない学校生活を助けていただきました。放課後も含め、ご自宅までもお邪魔しました。「田舎」の生活しか知らない、私にとっては、「都会」の大きな味方でした。畑井君は、体格も良く頼もしいのですが、きめ細やかな神経で、私の置かれた立場を、よく理解して援助してくれました。

 同じ高校(仙台一高)に進学し、大学卒業後は共に大学教員の道に進みましたが、理系(水産学部)、文系(法学部)の違いから、交流の機会はあまり恵まれませんでした。しかし、大学を退職し、それぞれ大学外に活動の場を設けるころから、連絡を取れるようになりました。Facebookでお互いの活動を知るようになり、畑井君の海外での教育研究活動を知ることができました。 Facebookでは、外国の大学での教え子の皆さんとの交流が詳細に取り上げられていますが、教育を重視し、次代の後継者を育てよう尽力している姿を伺うことができました。

 畑井君が帰国されたときには、仙台で、クラス(3年8組)の有志の昼食会を何度か開かれました。私の住む福島は仙台に近いので、私も参加させていただきましたが、東京からも参加者がありました。畑井君が帰国したので、昼食会をやろうという声が出て、彼の存在がクラスのまとまりを生みだしたようです。それほど、彼の存在が大きかったと思います。

 

 畑井君の専門を詳細には理解していませんが、大雑把に、魚の病気を研究していると思っています。私の生まれの女川町は、魚が中心ですし、それが基盤ですので、何か励まされているような気がしていました。また約40年住んでいる福島は、10年前の震災・原発事故で、いまだ避難者が少なくなく、主要産業である水産業も困難な状況です。漁業当事者は、必死に復興の努力をしていますので、畑井君の研究業績が、役に立てられるのではないかと期待しています。

 畑井君と最後にお会いできたのは、2018年11月で、彼の小学校の時代の同窓会の会合が会津若松の温泉旅館であるというので、その福島での乗り換えの3時間ほど、福島駅前で蕎麦を食べ、信夫山から福島市を眺め、花見山、茶屋沼を巡りました。茶屋沼の周りには、放射性物質を詰め込んで、搬出を待っている多数の黒色のフェルコンバックが積み重ねられ、美観を損ねているのが残念でしたが。

 余りにも突然のご逝去なので、未だ信じがたいのですが、愛する家族に見守られながら、静かに永眠されたと聞き、悲しみのなかにもホッとしています。

 

 畑井君、長い間の貴方の心温まる友情と援助に、改めて心から感謝を申し上げます。

 今後とも、愛するご遺族の皆様に対する、変わらぬ温かい眼差しで、見守っていただくよう心からお願いします。

 畑井君、安らかにお眠りください。

   2020年9月30日

                   中学校時代からの友人  今野順夫

 

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