謹んで星埜惇先生のご霊前に、お別れの言葉を捧げます。
星埜先生は1928年に徳島県でお生まれになり、広島県立広島第一中学校、広島高等学校、東京大学農学部をご卒業になり、1951年4月に福島大学経済学部に赴任され、1995年2月にご退官になるまで、44年間もの長きにわたって、福島大学の教育、研究、行政の発展のためにご尽力いただきました。
その間、学生部長、経済学部長を務められ、行政社会学部誕生の際には、行政社会学部の教授としてご尽力いただきました。1992年2月~福島大学学長を務められ、大学院地域政策科学研究科の設置を実現しました。
戦後、福島大学が設置されるのは1949年5月ですが、長い間、学芸学部(教育学部)、経済学部の2学部体制(EE大学)が続いて、改組型の新学部、行政社会学部が誕生する1987年10月までの38年間、厳しい教育研究環境の中でも、有為な人材を社会に輩出し、優れた研究発表等において、星埜先生は、その中心として活躍されてきました。
その後、現在では、3学群5学類の教育組織と4研究科をもち、さらに新たな発展をしようとしています。こうした発展は、星埜先生を含め、諸先輩方の労苦の賜物と思っています。
星埜先生は、大学内でのご活躍とともに、被爆者運動において大きな力を発揮されました。特に、活動休眠状態だった福島県原爆被爆者協議会を1985年に再建し、山田舜先生と協働で、被爆者の組織化に向け、県事務局長並びに日本被団協の全国理事として10年にもわたって活躍されました。こうした地域の被爆者組織化の力があって、日本被団協が、昨年のノーベル賞平和賞の受賞に辿り着いたのだと思います。
星埜先生が広島の学生時代に被爆した当時の経験は、皆さんにも、福島県九条の会発行のブックレットの講演録を、是非、お読みいただければと思います。これは2019年8月の星埜先生の講演を収録したものです。標題は「原爆投下の『時』を生きて」ですが、広島での被爆体験を通じて、戦争に対する鋭い批判をもち、「新しい戦前」と言わるような昨今の状況に、危機感を感ぜられていたのではないかと思います。
星埜先生は、我々若輩にも、丁寧で優しく指導していただきました。しかし、ご自分には、常に厳しく律せられていました。論集などの締め切りは、なかなか締め切りが守れず、延ばしてもらう口実だけを考えますが、星埜先生は、締め切り前に、いつも優れた論稿を提出されていました。身をもって、若輩の我々に指導をしていたと考えています。
これからは、興味尽きないお話も、示唆に富んだお話も直接伺うことができなくなることは、淋しく耐えがたい苦痛ですが、今までいただいた温もりに満ちたお話を反芻しながら生きていきたいと思います。
星埜先生、安らかにお眠りください。ありがとうございました。
2025年11月17日 今野順夫